世にも奇妙な世界

インターネットの使い方で疑問に思っていることをつらつらと書くブログです。

明らかに間違っている内容を呟いたときに対処すべきか、という命題を頂きました。
とても、とても難しい問題だと私は思いました。

ですが、自分で投げかけた言葉から発したことなので、糸口を見つけたいと思います。

まず、大前提として、Twitterに書かれる内容がすべて真実である必要があるか、については私はNoだと思います。
噂だって、間違いだって、適当だって、いいんですよ。
そもそも、ツイッターにどの程度の正しさをみなさんは求めているのでしょう?
東スポや週刊誌は信用しなくても、普通の個人がつぶやく内容は信用することが前提なのでしょうか?

情報をRTするときにそれが正しいかどうかを確認してするべきなんて、さらさら思っていません。
(5/4追記:RTするツイートそのものの真偽を確認するという意味では自分の判断で内容は吟味しますが、その情報提供者のプロフィールやバックグラウンドを確認して、ツイートを読んで、ブログがあればそれを読んでなんてことはしません、という意味で、どう考えても酷いツイートも判断せずにRTします、という意味ではありませんでした。言葉が足りませんでしたね) 
間違ってるよ、と指摘されたら、本当にそれが間違いだと判断できるものは、訂正するかもしれません。

噂とか、そんな話があるらしいよ、的なものに対してどう対応するのかは、相手によるという回答になります。
噂に関わる方からそれは間違っているから、修正してくださいと依頼が来たら、きっと対応します。
でも、第三者から「きっと間違いに違いないから削除して欲しい」と言われたらたぶん、対応しないでしょう。
真偽のほどが明確に分からなければ対処はしないと思います。

さらに私の意見に対して、間違っているから削除しろ、という意見を頂いたら、私は削除しないでしょう。
それでも自分の言葉に反論の意見があったら、なぜ、自分がそう思うのかを伝えることはするかもしれません。

ツイッターが背景なく140文字で何かを伝えるツールである以上、文脈もきちんと整理されていない言葉があふれていて、
真意を伝えることが難しいこともこのツールの使い方を難しくしていると思います。

よくよく考えて行くと命題は「自分のつぶやきが誰かに迷惑をかけたときどうするか?」ということにつきるのか、とふと思いました。
正しいことなら、人をバッシングするような内容でも、拡散して人を無尽蔵に傷つけていいのか?と考えるとそれもまた違うような気がするからです。

事象が様々なパターンで考えられるので、私は間違いだったらこうします、という汎用的な回答は見つかりませんでした。

それでも、私は書き手として、自分から出た言葉に何らかの責任を取るつもりはあります。
それが相手の望む対応になるかは別として。

私が伝えたかったのは書き手が責任を取らなくていい、ということではなく、書き手が信頼できる相手であるかどうか分からない世界では、情報を取捨選択する必要があり、そのリスクはどうしても、受ける側にある、ということなのです。
Twitter上にいる書き手の多くは信頼できる人なのか、なんて分からないですよね。
だから嘘八百を書いて拡散していい、という議論をしたいのではありません。

責任をとらない発信者が圧倒的に多い世界です。
責任をとるほどの重みのある情報だと思っていない人が多数いる世界です。
そんな深いことを考えてみなさんが使っていたら、世間からバカッターなんて言われたりしないと思います。 

その場合、受け手が判断をして情報を取捨選択する、ことが必要なんだと思います。
私は書き手でもありますが、受け手として呟いている人を見て、取捨選択をする毎日です。
(まずはここまで。もしかしたら、途中で考え方は変わるかもしれませんが)

「転載禁止です」

 
とよくプロフィールやツイートに書いていらっしゃる人を見かけます。
よく絵を書いて上げていたり、写真をアップされる方、動画を上げられる方などに多いのかもしれません。

もちろん気持ちは分かりますし、「禁止」と言っているのに敢えてそれをやろうとは思いません。
でも、それはいったいどこまでの効力があると思って書いているのだろう?といつも心配になるのです。
コンテンツを二次利用されたくなかったら、鍵付きアカウントで公開するか、DMでやり取りするか、直接の手段を選んだ方がいいのに、と思うからです。

コンテンツどころか、記事そのものまで無断転載されて出版までされてしまうそんな時代です。
キュレーション系のソフトなどで、無断転載が問題になった会社もありますよね。
明らかにその行為には問題があり、それを擁護する気は全くありません。

この事象は、デジタルコンテンツを確実に保護できる仕組みがないのに、技術がどんどん革新されて、だれでもコンテンツをどこにでもアップロードできるようになってしまった弊害だと私は思っています。
そんな状況ですから、普通の人が、インターネットにアップロードしたコンテンツをコントロールすることは本当に難しいのです。


プロフィールやコンテンツに転載禁止と書いたところで、守ってくれるのは直接のフォロワーさんや善意でコンテンツを活用してくれる方々だけです。
幾重にもRTされて、誰のコンテンツか分からない状態になったときに、「転載禁止」という気持ちを組んで行動してくれることを期待するのはとてもとても難しいですし、罰則のないルールは守らせることがとても難しいのです。

何らかの対策を取ったとしても、個人が完全に防ぐことは今の技術的にほぼ不可能です。 
よくTwitterでそういう人を指摘して行けばいなくなるから言うことが大事という意見も見たりします。
確かに少しはなくなる可能性があるかもしれません。
でも根絶することは本当に、本当に難しいのです。

それでもなお公開アカウントで大事なコンテンツを公開しますか?
私はお勧めしません。

それ以外の方法で仲間とコンテンツを共有する方法はあるからです。

逆に質問したいのです。
そこまでして、大事なコンテンツを公開する理由を。
公開でなければいけない理由を。

それを公開することでRTされたり、ふぁぼられたり、それを元に人間関係が出来あがることを期待しているからじゃありませんか?
そのそれと引き換えにするものが何かを考えてから選択してもいいのかもしれません。

インターネット界隈はとくにコンテンツに対しては無法地帯です。
それは完全に保護できる技術が安価で出てくるまで続くかもしれませんし、それができてもいたちごっこのように解除する仕組みが出てくるのかもしれません。

 

「みなさん、私と同じ意見なんです」

とたまにわたしのツイートに意見を頂くことがあります。
え?と一瞬考えた後、この人のTLは同じ意見であふれているということなんだ、ということに気づきます。
それ自体が気持ち悪いと思いませんか?

これはTwitterのフォローという特性が生んだ濃縮された世界だと思うのです。
私もそうですが、基本的に自分がそのツイートを読んで気分が悪くなったり、あまり同意できない方をフォローすることってありませんよね?
そうなると自分のHomeはだんだんと似たような意見の方が集まるようになります。
そしてその心地のよいTLがまるですべての人の意見を代表しているように感じたりするのでしょう。
あまりにも狭い世界なのに。

だから、私はずっとツイッターが「バカッター」だとか言われる理由が分かりませんでした。
そんな変な人は私のTLにはいませんでしたし、そういう変な人が引っかかるような検索もしたことがなかったから。


でも現実はそんな風に同じ方向を見ている人ばかりではありません。
世界はもっと薄められて多様化された場所です。
私はいくつかの異なる趣味や性質の方々をフォローしていることもあって、TLが何かで一色になる、ということはあまりありません。
地震があったときとか、オリンピックのときとか、本当に特殊な時だけです。

もし自分のTLがある出来事に対して同じ意見しか出てこなくなったら、そこがすでに異常な状態かもしれないと思って欲しいのです。
自分のTLで話題になったいることをtwitter全体で検索してみると、それがあまりにも狭い範囲でしか議論されていないとか、意見がもの凄く分かれてることを目の当たりにして驚くかもしれません。

「みなさん、同じ意見なんです、あなたが間違ってます。」

というまえにそのみなさんがほんとうにみなさんなのかを一度、疑ってみませんか?

「私はあなたが間違っていると思います」という意見を「みなさん」に置き換える必要はありますか?
多数派の意見は常に正しいですか?
本当にそれは多数派ですか?

 

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